精神分析雑談:「意味への意志」のミスマッチ

精神分析雑談:「意味への意志」のミスマッチ


現存在分析の人間が「意味への意志」を必要に求め、人間は自由と責任の向上的な意味を求める生きる意味づけの能動的で目覚め

的な人間性の本能がそれこそ健全に過ごせる、という素晴らしい知見と相似的に,浜田秀伯が彼の『精神病理学』(2017年版)で、人間の本質は宗教の神聖な超越のように未来を指し、より高く昔の自己を超越していく未来への向上志向性を持ち、それこそ自分の自然制限から拘束されるのではなく主観的意味を客観的環境に写入れられており,人間こその自由意志を見出し相対的な自由になり、時間を渡ってそして時間性に立って超越の自由意志の主体性がたち、時間性から自由や主体のイメージや志向性で時間の先に立ってより高い視点から時間の全体を見渡したりし、そして長い目で見るように深い意味や哲理を捉えようとしており,未来志向性の超越が現存の環境の束縛から解放され、そして自由意意識や主体の責任を得るという学理を提出しました。


確かに,人間が未来志向性のイメージにいて絶えずにより高い未来の道を無意識的に開こうとすればこそ,古代からたとえ先進により進んだ民族は武力上でより蛮族に近寄った民族に征服されても,先進民族のより文明的かつ繊細で豊かに多層に富むイメージの心理的世界から作り出す「未来への導き」が,人間の本来的性質に当たる「能動的なイメージ」という主体性の上に,豊かに分化したり細緻にしたりして進んでいく文明で蛮族の人間性を吸付け、蛮族に対して蛮族自身の無意識が向いて行かなくてはならぬ「未来への超越性」、即ち人間が人間である人間性の本質から蛮族が先進民族に同一化しなければいけないという力で,蛮族を最終的に自分の発達的な心理世界の能動性である「活発なイメージの豊かで細緻な展開していく」辿り道につけ、自分の進み道にて蛮族の将来を征服する。


例外の例もあり得る。例えばモンゴルが中国の漢族やアラビア諸民族を野蛮化させた片道で逆にしたことがなかったり,イスラム教の一方的な原理主義的野蛮化がアジアや北アフリカの諸民族をも毒してつつある片道である。これは殺戮や排他性などで,人間性が失われてくるという心理的バランスの崩れから生まれる心理学的ポテンシャルをもちつつありながら,心理的学ポテンシャルに進められるブレークダウンのベクトルの方向は細胞の正常な新陳代謝であるアポトーシスという細胞死のようではなくて、病的な細胞壊死することに喩えられており,なぜなら未来志向性の崩壊でブレークダウンの心理学的ポテンシャルはより高いところにある未来の超越性の「意味への意志の力」という理想化された対象にされてきたのである。病的な細胞壊死ならば新陳代謝の方向に向かせるのではなく,翻って発達の代謝の逆方向に向かせて変化のポテンシャルを発揮するように,暴力、殺戮や排他性を頼んで社会秩序を守り続けようとする社会的心理は,それの心理学的ポテンシャルの方向づけが生体に攻撃をもたらす細胞壊死ごとく人間の集団無意識の発育という心理的生体にも攻撃的なブレークダウンをもたらすのであろう。「意味への意志」のされ方は、人間の心理力動が自分の能動的に環境と掛け合おうとする性質で、体験が未来への予想を生々とさせたり彩げに予想したりという投影や投影同一化という繋がりの特徴の力動ポイントのされ方と言えるのであろう、そこの方向性のミスマッチができれば、文化形成の領域に及ぼす葛藤はややこしく形成されてくるのである。


2021年注:原始的なエディプス・コンプレックスが,個人の才能や悪知恵でずっと自分はどうしてもいの一番の権威らしく自任し続けて,必要な心理的去勢を掛けられることが失敗だったら,そのように形成した謂悪性の自己愛の場合では,「意味への意志」が妄想・分裂-ポジションでなんでも魔術らしく塗り替えられるように我儘に支配できたり,我儘に「我」だけが意味がある場所である,という自己愛的世界に陥って,他人の感情をにべもなく無関心に扱いながら他人を利用する欲動は,知能が自己モニターを働かしているから態と原則とされ,知能でコントロールする知識や論理への運用をも自分の自己中心的世界のためのみ意味があるように感じ取り,超越的な意味感の方向を極端に表面的な社会的適応を持つだけの自己愛的世界の中心に回し巻かれて,自分を絶対的な文化や魂での世界における権威やリーダーにさせなければならないというように,原父の元型は出てきて,自己愛のエディプス・コンプレックスが知性化の観念において心理的去勢を受けるだけ,情緒的な感性においてはずっと自分が絶対的に正しかったり絶対的に原始的で我儘な万能的自己愛世界が自己中心にさせられて他のものを圧倒するというふうの感じがそれを直してくれる感じを隔離し続けて,そして世界のイメージは,その病人が自分の絶対的な自己愛のエディプス・コンプレックスで絶対的な権威や規範らしく自己愛的に知識を歪めげに運用し描く理不尽な世界イメージこそ世界の原則であるという歪んだ様態になりそうで,そんな歪んだ世界のイメージで他人の情緒を左右したりして他人を自己愛的で情けなく不当に利用する場合が多い,更にそんなことを意識的に原則や規範として実際の行動や内々の信念において持ち続け,「意味への意志」が情緒的にずっと自己中心的な感性的イメージの体験世界での興奮にミスマッチされ固められているから。


同じメカニズムで,意味への意志のミスマッチは,一神教での病的な場合において,前述した病人を一神教の平板化で単調になんでもそういう平板で単調な様子にまとめて万能でなんでもそのように支配している神に変えたら,一神教の熱狂がその背後にある「意味への意志」がどのようにミスマッチの心理世界イメージが理解される。実際に,前述した悪質な自己愛的パーソナリティ障害の病人は,一神教に対しても屡々嫉妬が沸き起こって抑えきれなく,一神教が人間や倫理や物事を扱う嫉妬やケチでとよく似ていながら一神教の世界観のみ駁論したりし,宛ら一神教の世界観の中にある権威を自分で替えたらよく似合うような様子だ。例えば中国のある自己愛的に政治の動機をしたり科学普及の文化を自分の個人政治化にしたり,しかしいずれにしても絶対的なエディプス・コンプレックスでの性的嫉妬を持っており,性的侮辱を愛好したりして「方舟子」と彼自分に名付けた奴は,そんな病者ケースの好例だ。その病者にとって,自己中心的に性的嫉妬を持って無共感で他人を禁圧した支配や占有をしたりという態勢と反して自由や楽しみを共有し合いながらも社会の規範として渡って認められていないセックスの権利や生活選択は,必ずそんな病人に敵対され、必ずそんな病人に「自己愛的で嫉妬の統治や支配という攻撃や敵意的な権威を持って威圧的な権力を持つように」咎められたり言いがかりをかけられたり,当然の規範に認めていないながら性的嫉妬に脅かされて禁欲されないセックスを態と困らされて過ちとして非難されたりし,そんな偽善的な性格は典型的な原父の元型の持つ自己中心こそ意味への意志の所在というミスマッチの兆しなのだ。それにおいては,対人の共感的結び的関係の感情機能に関して先天的欠陥の虞も可能あるかもしれない。

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