意識と無意識との連続性やお互いに「シニフィアンとシニフィエ」的に重ならなさそうで共通な幻で無効な自己予想

意識と無意識との連続性やお互いに「シニフィアンとシニフィエ」的に重ならなさそうで共通な幻で無効な自己予想


人間は他人への洞察が自己洞察より安い,なぜなら観察対象と距離を置きやすく,観察者と被観察者を離して,能動的立場にある観察者自身を受け身的な被観察者の状態に置いて観察するという自己中心化へ挑戦は相対的に軽いからであろう。自己洞察なら、その時分析者としての自分が自己がシニフィエとしての他人に真似なければならなく真似るところが、自分の自己のシニフィエとしての相手と比べてそのシニフィエ位置に着くことがより安くないのだ,そして自分の自己対象としての大他者が広義的な相手として、他人は自己に対してが、自分は自己に対してと比べてより直接的に描写し安いから、意識的に理解し安いのだ。なお投影同一化に於いて相手が解釈者だけではなく、双方向的な「解釈者と体験者」の役割持つの間主体的フィールドに於いて自分が解釈者として解釈する他者体験の参画する人もとしながら、同時的に且つ互いに相手が自体の自己として自己が解釈する人の相手即ち自体自分の解釈する人の被解釈者ともし,被解釈者は解釈者とする具合は,両方と逆さで同時的なインタラクティブに双方向作りつ作られつ圧力を与えあって消し合ったり消され合ったりすることで推し進められる動的なシステムで,そして自己中心化への挑戦は,自己とは分離した他者の他者性に呼応されて支持してもらいやすくなるのである。


もちろん,それは意識体系と無意識体系との疎通が易くない原因である。意識システムと無意識システムは同じ意味体系を属して意味関連の連続性を共通しているが、疎通し合うのはなかなか滞りがちになり,なぜなら自分は自分自己の体験者として自己の体験を最も直接に身を受けているが,意識で無意識の体験を復唱する力動が常に自己中心化の抵抗に向いて滞らされる。シニフィアンとシニフィエの取り返しのつかない分断として,相手が担う自己対象が自己の自己対象をイメージして自己対象ニーズ中の自己にとって同一ではなく到底異なった主体として,不可欠ななギャップがあってこそ,自己中心化から出た抵抗への否定は,1人自分自身の意識と無意識が自己で自己中心化して意識と無意識との脱中心化し合う過程が自己中心化への否定より,大幅にしやすくなり,無意識どの意識が同じ意味を持って連続性を持っていながら同じ意味を異なって離れ合う象徴形態で表現し,そんな象徴形態どうしのは差異化は自分で本能的に作り出しながら,自分で克服する動機も発動が自動的な抵抗に向かわなければならない。


実に,無意識が自由連想をして前意識になりながら,「前意識-意識」システムの意識が観察をして解釈をかける解釈者として,前意識に入ってくる無意識理解する過程で,解釈の言説はシニフィアンとしてながら解釈される事象はシニフィエとして,この両者は完全に対応できないため,解釈される事象のシニフィエにシニフィアンでの解釈を掛けていく中でその両者が重なっていない部分が,解釈する過程で新しく産出してくる無意識の体験に影響してその新しい部分の無意識の形成を進め,そして無意識を完全に解釈することは不可能になる。即ち,古い無意識を完全に一度意識化してみて過去の無意識の意味を完全に意識での理解と重なり合うようにさせることができても,そんな過程で新たな無意識の意味合いが生じてきて,無意識システムと意識との象徴表現はやはりギャップな埋もれているように離れ合って,各自が共に同じ内容を体験していても,異なる意味合いの方向へ理解を構築しようとする各自の象徴形態を持って,無意識と意識が各自で本当に思いきや幻である意味合いへの思い違いどうしは,お互いに欠如らしい空白の共通部分を共に持っており,無意識と意識は必ず連続体となるかたわら共通の欠如らしい空白がその両者の間のキャップのように存在し(ラカン学派はその部分を重視),幻で実現できない自己予想であり無効部分は意識と無意識が各自で異なっている象徴形態で表現しながら,無効で幻に帰着する形で各自のその部分は共通していて,やはり無意識と意識での連続体に属しているというである。そんな原因こそ,精神分析のレベルが自分と同じ若しくは自分以上の他人から分析されるのは,自己分析より大幅に無意識を洞察する深さは進みやすくなる。しかし一方,他者からの分析はもちろん自己分析の協力が必要で,無意識の意識化すること自身は少なくとも一定の程度で自己分析の過程にならなければならないから。

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