病的集団的自己愛の日本皇国史観の現代ケースである宮崎正弘

病的集団的自己愛の日本皇国史観の現代ケースである宮崎正弘


2020年、日本で早稲田大学を卒業しなかった宮崎正弘という "有名な "高齢記者は,彼は典型的なバカとして,真面目にバカなフリをしていたのか、本当にそんなバカのかは知らないが、あまりにバカなので、日本はCovid-19をチャンスに鎖国に回帰すべきだと主張し,鎖国は日本文化を高めながら「帰農」の農本主義に回帰させる謂わゆる役立ちもあり,人口に応じた村の生活と仕事が固定制にされた「機械的連帯」共同体のコミュニティ回帰するという日本がすべきのことも,鎖国により進められ,そして鎖国をススメだ,と主張した。


そんな馬鹿馬鹿しい発言では,日本は鎖国以来の文化的発展の "頂点 "に達したと自画自賛していた。鎖国以来の日本の文化的発展は「頂点」に達したと自画自賛したけれど、そのいわゆる「頂点」は、江戸時代の一部の浮世絵師の日本画がヨーロッパ絵画に大きな影響を与えたことにすぎない。結局,謂わゆる「日本文化の頂点」と自画自賛した鎖国時代の日本の経済的も技術的発展も,他のアジア諸国のそれに比べれば極めて微々たるものであり、陶磁器の生産技術さえも豊臣秀吉による朝鮮からの職人略奪に頼っていた。アメリカが日本の開国を強要していた頃、宮崎正弘が「日本の伝統と文化の頂点」と呼んだ日本では、外交の場でアメリカの先進的な機械のプレゼントに答礼として出した贈り物が、技術的な内容が極めて低い布と紙の扇子などだけ、これら「日本の伝統と文化の頂点」と呼ばれる国々の経済的、技術的発展はあまりにも貧弱だった。宮崎正弘はこの状況を完全に無視する同時に,日本の伝統・文化が鎖国から頂点に達したという言い方のいわゆる「理由」では,つまり日本の浮世絵師数人がヨーロッパで大人気であったことを挙げたけど,逆にヨーロッパの様々な文化の登場人物がいっぱいながら,彼らは日本に影響されず、日本文化が彼らにおいて人気がないが日本に対して巨大な影響力を持ったり求められたりことを,宮崎正弘が全然無視した。宮崎正弘が見て見ぬふりをしたのは、19世紀において日本VS欧米の場合で,お互いに影響する・求められる程度の大きさの遥かな桁違いさという本質である。あたかも、どんなに小さな文化体であっても個別のエリアで優れて外界を驚嘆させたという現象が,他の文化圏で起こる限りそれは重要なことではなく,日本の鎖国文化体系で起こったら,それは日本の鎖国文化が如何に優越だったり,皇国史観通りに如何に特殊で外界より上等だったりするのを証明することでらしい,鎖国文化が優れて半人半神としての特異な優越性を保持し続けているかの様子である。


この宮崎正弘という人物は、完全に日本皇国史観の邪教らしい精神の残余勢力であり、その思考の中核はカルト化した病的な集団的自己愛であり、「日本の鎖国文化の優位性」といういわゆる「思想」は、歴史的事実の現実比例感を持たないながら,現代の日本の経済および健康な社会メカニズムの現実検討の比例感をも全然持たない,カルト宗教らしい古代化した封建主義の日本皇国の洗脳的なイメージ世界にぴったりと浸っているわけである。彼の極めてこじつけた「主張の理由」の核心は、特権意識,傲慢で侮蔑的な態度誇示で他人のイメージを踏みつけてこそ自己像の理想化色合い相対的に高くなるかのように高く上げる,という病的自己愛の自己世界たちが,自民族の集団に転移して託する病的集団自己愛なので,外国のものは異質なものとして,自国の集団的自己愛のパーフェクトさを汚染してくれてきて,隔て貶しげに蹴った方が良いよ,という容態なのある。つまり,病的に幼児的で幼稚的な自己愛のレベルに歪みに歪曲した病的自己愛の自己世界が,自分のパーフェクト性を自分と融合したかのような両親の理想化された原始的自己愛世界に委ねて、さらに自民族の「皇国」など集団にもっと移転する。この種の病的な自己愛は、不健康な人格を持ち、自己愛によって心理的発達が歪められた患者に起こるが、あの宮崎正弘はそのような患者であり、更に彼は非常にナチス的で反文明的な悪性患者なのである。

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